社交性
多文化主義とか多人種共存などと言われる。片田舎でも、というより片田舎であるが故の多人種共存もある。そんな中で、「働いてばかりいる」とか「仕事にはよいが生活はつまらない」などの評価を聞くこともある。わが国やわが国の一般の人達に関してのものである。さらに一部では、「年配者の偏見が強い」と顔を顰めるのに出逢うこともある。身近で素朴な人たちからの日常的な意見である。勿論、ごく限られた、多少偏った一部の方のものである。私も子ども時代を振り返ると、ある種の偏見が身近にあったように思い出される。そのルーツがどこにあったかは、安易に省察できないが、その陰りが「年配者の偏見」として指摘を受けているのかも知れない。やがてある時代の出来事として、長い歴史の中で幽かな存在になってゆくであろうから、目くじら立てることではないのかもしれない。で、社交性についてであるが、わが国民性に燦然と輝く社交性のなさは、畢竟個人としての存在の曖昧さにあるのではないだろうか。年端も行かない子供たちが、自棄にはっきりしたことを主張するのでたじろぎ、怖い物に会ったような気持ちになることがあるが、年配者の偏見や無個性さは、例えたてまえであるにしても多文化主義には馴染まないように思える。社交性がうわべだけのおべんちゃらのように考えられるのは残念である。これもまた、個人の確立以前の文化における誤解である。社交性には個人の確立が前提であり、自分らしさの尊重が必須であり、人格の練磨や責任についてのきちんとした考えも欠かすことはできない。安易に社交性云々は口にできないものだ。それと好意と、ある種の憧れとには何か関係があるのでしょうか。
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